フィレオ・フィッシュの小骨

『バンさんの場合』

バンさんとは2年ほど前にBEAMSの店頭で初めて会った。MANHOLEの顧客だったバンさんが転職のためのスーツを必要としているということで、MANHOLE店主の河上が僕を紹介してくれたのだ。バンさんからのリクエストは「着回しやすく、ベーシックなトータルコーディネート2セット」ということだった。当時BEAMSで売られているスーツの中で最もオーソドックスなモデルのグレー無地とネイビーストライプを事前に手配して、当日の来店を待った。

 

そして当日。物腰が柔らかく、控えめな声量、丁寧な言葉遣い。マッシュルームカットでメガネ姿のバンさんに「はじめまして、鶴田です」とあいさつを済ませると、さっそくスーツの接客に移った。少し緊張気味に見えたバンさんだったが、「プロの意見に従います」と言いながら、こちらの提案にすべてを委ねてくれた。結果的に、用意したスーツ2モデル+シャツ2枚(白無地とブルーストライプのセミワイドスプレッドカラー)、ネクタイ2本(ネイビー無地とネイビーストライプ)という最もクラシックな組み合わせでお買い上げ頂いた。Vゾーンの内容(シャツ・タイ)をそれぞれテレコにしても成立するコーディネートだ。バンさんとしては、靴まで僕に見立ててほしかったようだが、BEAMSの店頭に並ぶレザーシューズはどれも10万クラスのプライスで、スーツコーディネート×2にオントップするのは予算的に厳しそうだった。BEAMSでは選べないとしても、せっかくならばコーディネートに相応しい靴を選んでほしいと思ったので、僕はBEAMS銀座店の近くにある靴専門店を紹介した。バンさんには「コレコレこういうデザイン(スタイル)のモデルが5万円前後で並んでいるはずなので、あとはTPOを伝えてスタッフに相談してみてください」と促し、見送った。30分ほどすると、一度退店したはずのバンさんが戻ってきていた。手には靴屋のショッパーを提げている。「鶴田さんに勧められたとおりのものを買えたと思うのですが、ご丁寧に靴屋の紹介までしていただいたので購入のご報告にうかがいました」とのこと。二人で靴箱の中身を確認しながら「ばっちりですね!」と話しつつ、「ご丁寧なのはバンさんも同じじゃないですか」と心の中で思った。

 

僕がBEAMSを退社した後、バンさんとはMANHOLEの店頭で会うようになった。バンさんは京都出身の人で、丁寧語の隙間に関西弁を挟んでくる。美大に入るために上京し、卒業後は図書館などで働いていたが、(スーツを買い求めた際の)転職後は法律関係の事務所に勤めている。映画や本が大好きで、もちろん美術にも詳しい。BEAMSで出会ったときの印象よりも実際にはずっとおしゃべりで(僕と波長が合うのだろうか?)、ことあるたびに「鶴田さん、あれは観ましたか?これは読みましたか?」と難しい映画や本の話題を振ってくれる。いつの間にか、休みの日には一緒に飲みにいくようになった。「今、上野で飲んでいるのですが、よかったらご一緒しませんか?」という控えめな誘いの中に、「とても来てほしい」的な行間を読んでしまうので「では、池袋で合流しましょう」と返してしまう。そして、一緒に飲みに行くようになって初めて知ったのだが、バンさんは酔うと「明るい絡み酒タイプ」に豹変するのだ。7歳ほど年上の僕に対してバンさんが笑いながらタメ口で「鶴ちゃん」よばわりをするので、同席しているほかのメンバーが冷や冷やするほどに酒席の彼は明るく、酔い崩れる。ちなみに僕自身はタメ口を利かれることことなど全く気に留めていない。酒を飲んでご機嫌なのはいいことだし、普段は丁寧すぎるほど丁寧なバンさんの言葉が乱れているのは、なんだか微笑ましいと思う。

 

そして、STUDY。バンさんに用意した2コーディネートのうち、ひとつはRAF SIMONSのジャケットにYSLのフランネルパンツなどを合わせたスクールボーイルック。着せ付けながら「バンさん、今日は何か文庫本を持ち歩いていますか?」と尋ねたところ、案の定一冊の本を取り出してくれたので、そのまま手に持ってもらうことにした。ついでに「今日のテーマは晴耕雨読です」などと嘯きつつ、本を読むスクールボーイの上から1000円の透明ビニールレインコートを被せた。もう一体は、僕の私物のマルジェラ(パンツ、アームウォーマー)を中心に、僕の妻のリブニットを着てもらった(バンさんはスリムだ)。仕上げに溶接作業用のゴーグルを着けてあげると「闇ジブリ」みたいなキャラクターがそこに現れて、思わず僕は「バンさん、とてもお似合いです」と笑った。天空の城のオルタナバージョンで、もしも地下帝国があるのだとしたら、その城を守るのはきっとこんなフォルムのロボットだろう。バンさんとしては、2年前に最もオーソドックスなスーツコーディネート×2をお勧めしてくれた同一人物に、まさかゴーグルと雨合羽を着せられるとは思ってもみなかっただろうけれど、もしかすると僕は2年前の時点からバンさんの顔にゴーグルの影を見ていたのかもしれない。スーツコーディネートでは隠し切れない逆張りのペルソナ、つまりゴーグルの奥にある顔。STUDY No.8。

 

2023.10.15