笛を吹いてアルコール

『初めての幸福』


いつもどおり、池袋・三福のカウンター。

70代後半かなという杖をついた紳士(ストローハットとネイビーシアサッカーのジャケット姿)が僕の隣席に着席。座りながら「生ビール、ひとつ」とオーダーした。

続けてホールの子に「俺、初めてだからどこ見ていいか、ワカンナイや」と告げる。ホールスタッフのミスタがホワイトボードと卓上メニューを指さしながら「ココとココに(メニューが)書いてあるヨ」と答える。彼の方を見ることなく、耳だけでなんとなくそちらの様子を窺っていると老紳士は「かつお刺し」を注文し、そのすぐ後に「あと、アレ、なに?え、もつ煮込み?じゃあ、それをひとつ」と続けた。

かつお刺しは右隣に座る僕が食べているもの、もつ煮込みは彼の左隣の客が食べているもの。そうか、彼の方は周りを見ていたか。初めての店で、周囲の客が食べているものを観察してから同じものを頼むという行為は、個人的にとても合理的だと思う。

 

だって、そうだろう。メニューの文字面だけでは、かつお刺しの厚みも、もつ煮込みの色も分からない。目で確かめて、頼む。周りが食べているから信頼して、頼む。これは、他人が着ている洋服を買っていれば間違いないだろう、という安パイ路線のクリエイティブ風味よりもむしろ、ずっともっと謙虚さが勝った末の選択である。

 

運ばれてきたかつお刺しともつ煮込みを一口ずつ食べて、彼は一言「美味いね」と言った。その後に続けて(おそらく、ファーストオーダーの刺し身ともつ煮込みでこの店を信頼したのだろう)やきとんの注文を始める。16種類くらいある串モノの中から、アラカルトで一つずつ選んでいる(ランダムな盛り合わせもできるのだが)ようだ。

かしら、ハツ、レバーなどを含めて5種類選んだ後、ミスタに「味付けは?」と尋ねられて、老紳士は迷わず「おまかせ、で」と答えた。

郷に入っては郷に従え。

「5本、ダイジョブ?けっこうボリュームあるヨ?(食べきれる?)」というミスタの忠告にも「ダイジョブだろ、たぶん」と返した。そのうちに生ビールから「芋焼酎の水…いや、お湯割り」にシフトチェンジし、気分良さそうに飲む左隣の老紳士を横目にチラリと見たら、届けられたタン元を頬張りながら、何度か反芻したあとに、2度ほど深く頷いて飲み込み、そして「あーー(ウマい)」と言った。一方の優しさと一方の謙虚さに溺れそうになりながら、僕はチューハイを3杯飲んだところで、席を立った。

帰り際、彼と藤田さんの会話から「俺、テレビ見て来たんだよ、この店」という件が聞こえた。「あれ、なんだっけ?なんのテレビだっけ?俺が見たの?」「あー、それはきっと吉田類だな。あの番組はもう、震災のすぐあとだから、たぶん12年とかそれくらい前かも」と。なぜ、彼は10年以上の歳月(タイムラグ)を経て吉田類のテレビ番組を見て、ここへやってきたのか?そんなことは彼以外の誰にも分からないけれど、とりあえず僕が会計中にちらりと見やった老紳士は、もう少しで5本目のやきとんを平らげようかという、まさにその時で、なんだか無性に嬉しかった。

できることならば、みんながみんな幸せであってほしい。年齢も学歴も来店頻度も味覚の偏差値も関係なく。偽善でも欺瞞でもなく、自然とそんな感情が湧き上がってくる不思議な時間・瞬間だった。…という、地味なエピソード。でも、これ、ホントだよね?この気持ち。

 

2024.06.04