笛を吹いてアルコール

『鬼ヶ島』

或る夕暮れ、いつもの店にふらりと立ち寄ってみたところ、メインカウンターが満席だったため店内最奥の小さなカウンターに通された。そのカウンターには60代のおじさんが先客として座っており、僕は彼の隣に着席した。横並びになった僕とおじさんの背後には4人席のテーブルがふたつ配置してある。テーブル席の片方には女性4人組が陣取っている。

 

僕が席に着いた時点で女性4人組の会話は既にヒートアップしており、僕とおじさんの背後から飛んでくる声量はかなり大きい。チューハイが運ばれてくるまでの間、なんとなく彼女たちの声を聞いていると、リーダー格の1人が口角泡を飛ばしながら弁舌捲し立て、会話の大部分を支配している。他の3人はほとんど迎合の姿勢で「ホント、そうですよね…」「わかりますぅ~」「私なんて5年も現場にいるのに…今日も××さんに助けてもらってばかりで…」と、会話を合わせている(ように聞こえる)。「この店、2時間制じゃないのね。○○さん、もう1杯飲めば?」というリーダー格の発言からして、この女性陣は入店からそれなりの時間を経過しているものと思われる。リーダー格とサブリーダー格(以下、桃子とイヌ美)は半ばろれつが回っていない。2軒目なのだろうか。

 

どうやら、桃子は3人にとっての「仮想敵」(特定の人物あるいは、ライバル部署)を徹底的に貶めることで、自らが率いるこのテーブルの結束力を高めようとしているようだ。更に、桃子はイヌ美・サル奈・キジ香たちが持ち出す社内のあらゆる事象・問題に対して「それは無駄だから」「そんなの謝る必要もないし」「あいつはいつもそうなんだよ」「今度、あたしからはっきり言っとく」と一刀両断、斎藤一(さいとう はじめ)の如く「悪・即・斬」を(会話で)遂行していく。桃子は世直しの大義名分を旗印に掲げながらホッピーをあおり、イヌ美は補足説明に徹することで桃子を忠実にサポートし、サル奈とキジ香は「さすがです」「カッコいい!」を連呼している。他人から見ると「忖度と迎合と服従の3連つくね」にしか思えないこの集いも、桃子によって「今夜は本音ぶっちゃけナイト」とでも設定されているのか「みんな言いたいこと言ってスッキリしよーよ!アタシ、聞いてあげるからさ!」というムードがテーブル上でとぐろを巻いている。

 

ふと、「まだラストオーダー取りに来ないんなら、○○さん何か頼んだら?」というイヌ美の提案をきっかけに、4人は一斉にメニューを注視し始めた。口火を切ったのは、やはり桃子。ホールスタッフの1人を呼び止めて「エイヒレっ」と吐き捨てるようにコールした。呼び止められたスタッフは、(僕も顔を見たことがないので)おそらく新入りなのだろう。「はい、エイヒレ…ですね…」と、メニューを見ながらモタついている。5秒も経たないうちに、桃子が「エ・イ・ヒ・レ。無いなら、要らない」と、高圧的にオーダーを切って捨てた。気圧された新入りは「はい…今日はエイヒレ、終わりました…」と返すしかない。突然、桃子が「○○部にいるイケメン」に話題を切り替えた。「彼、いい身体してる」「顔、可愛い」などと、彼のことを称賛する。周りのメンバーは「へぇ〜!」と相槌を打つ。推しメンの話題でご機嫌になった桃子は興奮気味に「シックスパック」というワードを持ち出そうとしたが、語気の強さに反比例して、滑舌がもはやすっかり悪い。結果として桃子の口は「シックススパック」という音声を発した。仮に「6th Pack」だとしたら「6番目の袋」ということになり、向かって左上から数えて良いのかどうかも含めて、気味が悪い。しかし桃子は上機嫌だ。「いやー、やっぱりこの店は酔うねー!池袋だとさー、美味しいラーメン屋を1軒知ってたんだけど、コロナで閉まっちゃってさー」と雄叫びを上げている。「そろそろ…」と、イヌ美は会話を締めに導きホールスタッフにお会計の合図をした。一方、桃子は「人間50年」をテーマに持論を展開し始めていた。人間50年。下天のうちにくらぶれば。人間の腹筋に「6th Pack」など存在しない。夢幻の如くなり。

 

会計待ちの間、桃子はなおも他人への文句をまくし立てている。収まる様子がない。この先に向かうのはラーメン屋か鬼退治か、それとも比叡山の焼き討ちか。突如、桃子が席を立ちながら大声で「そーだ、LINE交換しようよ。これから私たち同じ職場で働くわけだし!」と言い放ち、僕は「えっ?」と思った。彼女たちはすっかり運命共同体なのだと思い込んでいたけれど、実はまだ仲間になったばかり?なんとなくずっと振り返ることが出来ないままでいた僕は、これが最後のチャンスとばかりにホワイトボードを見るふりをしながら桃子の方をはっきりと見た。50代の顔が、酒のせいで見事に紅潮していた。イヌ美とサル奈とキジ香は苦り切った顔をしながらスマホを桃子の前に差し出していた。人間50年。どうかこの先も、イヌ美がサル奈とキジ香を引き連れて桃子の本能寺を攻めたりするようなことがありませんように。そう願う僕の隣席では、60代のおじさんがニコニコしながら新入りのアルバイトに向かって「まぐろブツ、ある?あ…ない?じゃあ、まぐろ刺し…それもない?じゃあ、刺身三点盛りでいいや!あははー!」と笑っていた。

 

 

2023.10.27