笛を吹いてアルコール

『回転する居酒屋』

もう半年くらい前の話だろうか。行きつけの居酒屋のカウンター席で一人、ぼんやりとチューハイを飲んでいた。入り口に一番近いその席の前にはレジがある。レジの背後には二階席へつながる階段がある。焼き場を切り盛りする大将と軽い雑談をしたり、二階から会計に降りてくる人々の様子をなんとなく観察したりしながらボーっとできるので、店内の隅っこにあるその席は僕のお気に入りだった。

 

一階にある焼き場の大将・藤田さんは僕の顔を見ると「今日は鯵がいいぞ」とか「サンマだな、今日は」などと焼き魚をオススメしてくれるので、その晩はカマスの開きをチビチビと箸でつついていた。そのうちに、二階から降りてくる男二~三人の話し声と荒っぽい足音が聞こえてきた。かなり酔っているようだ。階段はドタバタと千鳥足のリズムを鳴らしている。先に降りてきた一人がレジで会計をしているのが横目で見えた。と、次の瞬間。「ゴロゴロゴロっ!ドスッ!!」と大きな音がした。とっさに顔を上げると、カマスの開きが空中をクルクルと舞っているのが見えた。カマスはスローモーションで何周か回転した後に、 べちゃっと情けない音を立てて床に落ちた。カマスが落ちた隣には、太ったおじさんと割れたジョッキとチューハイの氷がすでに散らばっていた。あまりに一瞬のことでよく分からなかったが、どうやら泥酔したおじさんが前のめりに階段から落ちてきてすぐ傍にある僕のカウンター上をひっくり返したらしい。騒然とする店内。幸いおじさんは無事らしく、すぐに立ち上がり慌てふためきながら店の外へ。連れの客は「すみません、ホントすみません!」と平謝りしながら大将に1000円札を一枚渡すと、これまた脱兎のごとく店を飛び出していった。1000円。僕のチューハイとカマスの弁償金という意味らしい。

 

ホールの女の子がほうきとちりとりで魚の残骸と割れたジョッキを集め始めると、なんとなく店全体が我を取り戻した。大将は「大丈夫だった?洋服とか濡れてない?なんだよ、あの客。あんなに酔っぱらいやがって、一番嫌いだよ、あーゆーの!」と怒っていたし、僕の隣にいたカウンター客は「ほんとだよ、あれで1000円とか(弁償金としては)桁が違うっしょ!」と同調していた。彼らの怒りとは裏腹に平然と落ち着いている僕の表情を見て、隣の客は「怒らないんですか?心、広いっすね…」と話しかけてきたので「いや、僕は別に(服も汚れていないし)大丈夫なんですけど、なんかカマスが可哀そうで」と答えたところ「そっか…、魚が可哀そうか…。その視点はなかったなぁ…」としきりに感心していた。そのあとも、隣客はしばらくの間「魚が可哀そうか…なるほど…」と、ブツブツ言いながらホッピーを飲んでいた。魚が可哀そう。とっさに出た言葉だったので、僕が何を感じていたのかは自分でも分からないけれど、たしかにあの時、スローモーションで回転するカマスと僕は目が合った気がする。まだ体の1/4しか食べてもらっていないのに、宙を舞う俺。こんな末路のために俺は釣られたわけじゃない。カマスの瞳は濡れていた。僕は賠償金の1000円でチューハイのお代わりを頼み、カマスの代わりに運ばれてきたブロッコリーのガーリックマリネを食べた。帰り道もなんとなく、頭の中ではさっきのカマスがクルクルと回り続けていた。

2023.12.25